Se connecter翌朝。
深雪は、スマートフォンの画面を睨んでいた。 『彼には気をつけてください』 昨夜、Tから届いたメール。 その「彼」が誰なのかは、考えるまでもない。 ──和光。 「……何なのよ」 深雪はベッドの上で頭を抱えた。 和光は、ただのカフェの常連客だ。 少し変わっている。 でも、悪い人には見えない。 むしろ。 「……優しそうだったけど」 それが余計に分からない。 Tは、なぜ和光を警戒しているのか。 そもそも。 「なんでTは、和光さんが私の知り合いだって知ってるの?」 疑問が一つ増えた。 そしてもう一つ。 Tは、どこまで自分を見ているのだろう。 深雪は、背筋が少し寒くなった。 「……やっぱり、警察?」 いや。 さすがに大げさだ。 ただのメールだ。 それに、金銭を要求されたわけでもない。 むしろ逆。 月100万円を払うと言われている。 「それが一番怖いんだけど」 深雪はため息をついた。 Cafe Luce。 「深雪ちゃん、今日ちょっと顔怖いよ」 店長に言われる。 「え?」 「寝不足?」 「……はい」 「ちゃんと寝なよ」 「気をつけます」 そう言いながら、窓際を見る。 今日は和光はいない。 少しだけ安心した。 ──その直後。 「こんにちは」 「ひっ!」 背後から声がした。 振り返る。 和光だった。 「……びっくりした」 「すみません」 和光は申し訳なさそうに笑った。 「今日は空いてますね」 「そうですね」 深雪は少し距離を取る。 すると、和光が不思議そうに見た。 「……何かありました?」 「いえ!」 声が裏返る。 「本当に?」 「本当です」 和光は少し考えて。 「なら、いいんですが」 席へ向かっていった。 深雪はその背中を見ながら思う。 やっぱり、悪い人には見えない。 でも。 Tが警戒している。 ……いや。 「Tが怪しいんじゃない?」 深雪は小声で呟いた。 月100万円の愛人契約を申し込んできた人物。 自分の生活まで把握している人物。 どう考えても、Tのほうが怪しい。 「うん。絶対そう」 深雪は一人で納得した。 その頃。 和光こと佐倉大晴は、コーヒーを飲みながら深雪を見ていた。 「……警戒されてる」 当然だった。 自分でも分かっている。 昨日のメールは失敗だった。 深雪が「和光」を怪しむようになったら困る。 しかし。 「Tとしても、和光としても、距離を置かれるわけにはいかない」 佐倉は真剣に悩んでいた。 会社の経営戦略なら、いくらでも考えられる。 だが。 恋愛だけは。 「……難しい」 佐倉は深いため息をついた。 その姿を、深雪が遠くから見ていた。 「……やっぱり怪しい」 完全に誤解だった。 その日の夕方。 深雪が居酒屋へ向かうと、薫がスマートフォンを握りしめていた。 「どうしたの?」 「……オーディション」 「え?」 「また落ちた」 薫は笑っていた。 けれど、その笑顔はいつものものではなかった。 「そっか……」 「もう二年だよ」 薫はスマートフォンを伏せた。 「二年もやって、一回も大きい役なんて取れない」 「でも、続けてるじゃん」 「続けてるだけ」 薫は笑った。 「深雪はいいよね」 「え?」 「文章で仕事になってるんでしょ?」 「……まあ、一応」 「私なんて、何にもない」 その言葉に、深雪は少し黙った。 薫は、自分のことを「何もない」と言った。 でも。 毎週オーディションを受けている。 仕事のあとに演技の練習もしている。 それを、深雪は知っていた。 「薫ちゃん」 「何?」 「私も、何もないよ」 「嘘」 「本当」 深雪は笑った。 「私の文章だって、最初は誰にも読まれなかったし」 「でも今は読まれてる」 「たまたまだよ」 「……そういうところ、嫌い」 「えっ」 薫が笑った。 「自分で自分のこと、低く見積もりすぎ」 「……」 その言葉が、妙に胸に残った。 * 仕事が終わった深夜。 深雪は帰宅して、パソコンを開いた。 新しいメールが届いている。 Tからだった。 『昨日の件、驚かせてしまって申し訳ありません』 深雪は読む。 『あなたを監視しているわけではありません』 「……本当かな」 『あなたの文章が好きだから、つい気になってしまうだけです』 少しだけ、胸がざわついた。 それから。 『それでも、あなたに一つだけ伝えたいことがあります』 深雪は画面を見つめた。 『あなたは、自分が思っているよりずっと価値のある人です』 「……」 深雪は何も言えなかった。 普段なら、そんな言葉は簡単に信じない。 自分なんて。 そう思ってしまう。 けれど、その日は違った。 昼間の薫の言葉を思い出した。 『自分で自分のこと、低く見積もりすぎ』 深雪は、ゆっくり息を吐く。 「……私って、本当にそうなのかな」 そして、初めてTへの返信欄を開いた。 しばらく迷ってから。 一言だけ入力する。 『あなたは、私の何を知っているんですか?』 送信。 数秒後。 返信が届いた。 『全部、とは言えません』 さらに。 『でも、あなたが書いた文章なら、誰よりも読んできたつもりです』 深雪の心臓が、ほんの少しだけ跳ねた。 その頃、別の場所で。 佐倉大晴は送信済みのメールを見つめていた。 「……好きだって言いたい」 しかし。 「……絶対、言えない」 敏腕社長。 恋愛偏差値だけは、驚くほど低かった。翌朝。 深雪は、スマートフォンの画面を睨んでいた。 『彼には気をつけてください』 昨夜、Tから届いたメール。 その「彼」が誰なのかは、考えるまでもない。 ──和光。 「……何なのよ」 深雪はベッドの上で頭を抱えた。 和光は、ただのカフェの常連客だ。 少し変わっている。 でも、悪い人には見えない。 むしろ。 「……優しそうだったけど」 それが余計に分からない。 Tは、なぜ和光を警戒しているのか。 そもそも。 「なんでTは、和光さんが私の知り合いだって知ってるの?」 疑問が一つ増えた。 そしてもう一つ。 Tは、どこまで自分を見ているのだろう。 深雪は、背筋が少し寒くなった。 「……やっぱり、警察?」 いや。 さすがに大げさだ。 ただのメールだ。 それに、金銭を要求されたわけでもない。
「……どうしよう」 佐倉大晴は、パソコンの画面を見つめたまま固まっていた。 画面には、一通のメール。 深雪からの返信だった。 『あなたが「ひなたのねこ」だと知っていることは、どうか忘れないでください』 昨夜、自分が送ったメールに対する返信ではない。 それでも、深雪の文章を何度も読み返してしまう。 「……怒ってるよな」 当然だった。 いきなり月100万円の愛人契約を持ちかけたのだから。 普通なら警戒する。 いや。 普通なら警察に相談するかもしれない。 「……やっぱり失敗だったか」 佐倉は額を押さえた。 仕事なら、失敗の原因を分析して次の手を考えられる。 経営判断。 市場調査。 投資。 交渉。 どれも得意だ。 だが。 「女性との距離の縮め方だけは、どうしても分からない……」 机の上には、一冊の雑誌が置かれている。 そこには深雪のコラムが掲載されてい
翌日の午後。 深雪は、Cafe Luceのカウンターで一人、スマートフォンを睨んでいた。「……Tって、誰なんだろう」 昨日から、そればかり考えている。 メールの内容からすると、Tは深雪の文章をかなり前から読んでいる。 しかも、ただ読んでいるだけではない。 深雪自身のことまで、ある程度知っているようだった。「怖いな……」 けれど、気になる。 深雪は検索画面を開いた。 ペンネーム「ひなたのねこ」。 自分自身について検索するのは、少し恥ずかしい。 けれど、Tを探す手がかりがあるかもしれない。 検索結果を眺める。 自分のコラム。 過去のエッセイ。 読者の感想。 そして──。「あ」 一つの記事が目に留まった。『今注目の若手エッセイスト・ひなたのねこ』 掲載されたのは数か月前。 そこには、連載している雑誌名も、簡単なプロフィールも載っている。「……これだけなら、誰でも読めるよね」 Tが特別な人物だとは限らない。 そう考え直したところで。「深雪」 背後から声がした。「わっ!」 スマートフォンを慌てて伏せる。「何してんの?」 そこにいたのは、居酒屋のバイト仲間、立花薫だった。「な、何でもない」「怪しい」「本当に何でもないって」「ふーん」 薫は深雪の隣に座った。 いつも通り、華やかなメイク。 流行の服。 SNSで見れば、きっと毎日楽しそうに見える。「ねえ」 薫が突然言った。「深雪ってさ、金持ちの男に愛人にならないかって言われたら、どうする?」「……え?」 深雪は固まった。「なんで?」「いや、昨日SNSでそういう話が流れてきたから」「……」 偶然。 たぶん偶然。 深雪は自分に言い聞かせた。「私は断るかな」「即答?」「うん」「もったいな」 薫は笑った。「月100万円とかなら?」「……」「生活全部面倒見てくれるとか」「それでも嫌」「なんで?」 深雪は少し考えた。「……自分が、自分じゃなくなる気がするから」 薫が黙った。「お金をもらうことが嫌なんじゃない。でも、その人に選ばれたことが、自分の価値みたいになるのは嫌かな」「……ふーん」 薫はそれ以上何も言わなかった。 ただ、どこか納得していない顔をしていた。「まあ、私なら一回話くらい聞く
翌朝。 深雪は、眠い目をこすりながらスマートフォンを見つめていた。 昨夜のメール。 月100万円の愛人契約。 何度読み返しても、書いてあることは変わらない。「……夢じゃなかった」 ため息をつく。 午前一時まで働いたあとに、こんなメールを受け取るなんて。 しかも相手は、自分の文章を読んでいるという。「どういう人なんだろう……」 深雪はメールをもう一度開いた。 差出人は「T」。 本名も、年齢も、職業も分からない。 ただ、メールには一つだけ具体的な条件が書かれていた。『月額100万円をお支払いします』「……100万円」 思わず口に出す。 100万円。 それだけあれば、奨学金の返済もかなり楽になる。 実家への仕送りだって増やせる。 今月、シフトを一日減らしてもいい。 毎日終電近くまで働く必要もなくなる。 ──でも。「だからって、愛人は無理でしょ」 深雪は首を横に振った。 お金が欲しくないわけではない。 むしろ、欲しい。 ものすごく欲しい。 けれど、お金と引き換えに誰かとの関係を買うことには抵抗があった。 それに。「私、そんなに器用じゃないし」 愛人なんて、できるわけがない。 相手の機嫌を取って、恋人のふりをして、秘密の関係を続ける。 想像しただけで胃が痛くなった。 深雪は返信画面を開く。『申し訳ありませんが、お断りします』 入力して。 送信。「よし」 これで終わり。 そう思った。 ところが。 五分後。 スマートフォンが震えた。『承知しました』「……早っ」 返信が早すぎる。 深雪は警戒しながら続きを読む。『ですが、理由を教えていただけませんか?』「理由?」 そんなもの決まっている。 愛人になりたくないから。 深雪は少し考えてから返信した。『お金で人間関係を作るのが嫌だからです』 送信。 すると、今度は三分ほどで返ってきた。『あなたらしい回答ですね』「……は?」 深雪の眉が寄る。『どういう意味ですか?』 返信。 しばらく待っても、今度は返事が来なかった。「……何なの?」 気味が悪い。 けれど、同時に引っかかる。 ──あなたらしい。 まるで、以前から自分を知っているような言い方だった。 その日の昼。 深雪はいつものようにCafe Luceで働
朝六時。 塩入深雪は、目覚まし時計が鳴る三秒前に目を覚ました。「……あと五分」 そう呟いて、布団に顔を埋める。 そして五分後。「──って、無理! 遅刻する!」 飛び起きた。 寝癖を手ぐしで直し、顔を洗って、トーストをくわえながら鞄を掴む。 今日も、いつも通りの朝だった。 大学の奨学金返済。 実家への仕送り。 家賃と生活費。 二十三歳の深雪にとって、「余裕」という言葉は辞書の中にしか存在しない。 昼はカフェ「Cafe Luce」。 夜は居酒屋。 二つのアルバイトを掛け持ちして、空いた時間に文章を書く。 それが、深雪の日常だった。「深雪ちゃん、おはよう」「おはようございます!」 カフェに駆け込むと、先に来ていた店長が笑った。「今日もギリギリね」「すみません!」「でも間に合ってるから偉い」「それ、褒めてます?」「半分くらい」 笑いながらエプロンを身につける。 忙しい。 疲れる。 眠い。 それでも、この仕事が嫌いなわけではなかった。 注文を受けて、料理を運んで、お客さんに「ありがとう」と言ってもらう。 そういう小さなやり取りが、深雪は好きだった。 そして、もう一つ。 深雪には誰にも話していない「好きなこと」がある。 文章を書くこと。 スマートフォンを開けば、そこには別の名前のアカウントがある。 ペンネーム──「ひなたのねこ」。 日常の小さな出来事。 電車の中で見かけた親子。 雨の日に傘を貸してくれた見知らぬ人。 コンビニ店員の何気ない一言。 そんな些細な出来事を、深雪は文章にしていた。 最初は完全な趣味だった。 けれど、ある日。 投稿したエッセイがコンテストで入賞した。 それをきっかけに、女性向けファッション誌から声がかかり、現在は月一回のコラムまで担当している。 けれど。 深雪は、そのことを周囲にはほとんど話していない。 別に隠したいわけではない。 ただ──。「文章で食べていけるわけでもないし」 そう思っていた。 だから、昼はカフェ。 夜は居酒屋。 文章は、その合間。 それで十分だと思っていた。 その日の夜。 居酒屋の仕事を終え、深雪は午前一時過ぎに帰宅した。「つかれた……」 ベッドに倒れ込む。 スマートフォンを見ると、編集部から